「林檎の碑」。

(あしあと その625)

東区内を南西から北東にかけて貫くななめ通は、明治6年に篠路村の早山清太郎によって開かれた古くからの道です。北11条東12丁目の通り沿いの南側に、ボーイスカウト札幌第7団の集会所があり、その東側に奥の民家に続く通路があります。

この通路の入り口から奥を望むと、突き当りに石碑が置かれているのが見えます。

白御影石でできたこの碑は、「林檎の碑」です。民家の手前に小さなロータリーが作られ、碑はその中央に置かれています。碑面には大きく「林檎の碑」と刻まれています。

碑の背面には、

「札幌村元村の林檎は橘仁が此地に定住し苗木を植付せる時より始まる

仁は東京に於て津田仙氏の学農社に学び 明治十七年春 苗木妻戸籍を携へ此地に住付き栽培す 適地で順調に生育せる樹は明治二十三年より結実初めて販売す 橘林檎園の誕生なり 隣地の農家より之を倣ひたる約十名も全て林檎園とし以後十余年は年々収穫を増し当時仁は札幌の林檎栽培の第一人者として知られ北海道果樹協会会長北海道大学南鷹次郎の役員を務め全国博覧会に優等賞を受けその果実は宮内省に献上の光栄を担うに至る其後病害に会い他の農園は全て玉葱に転向せしも仁は再度作付し二十余年の後昭和五年六月十四日仁没と共に林檎園は消滅す 仁が此地に基を定めて百年以上経ち其の孫三十余名は国内はもとより米国伯国に在る今祖父を偲びてこの碑を建立す 尚橘家と共に林檎栽培せる松澤巖氏此の企てに加わり大なる力となり共に喜ぶ事が出来たのは幸ひである

昭和六十一年(一九八六年)九月

この林檎園に関わりのある詩を一首加ふ

石狩の都の外の君が家

林檎の花の 散りてやあらむ 「一握の砂」より」

と刻まれています。

この石碑が建てられている敷地こそ、橘家の末裔の方が管理されている私有地になります。末尾に刻まれた短歌は石川啄木によるもので、橘仁氏の娘である橘智恵子に寄せられたものです。智恵子嬢は、啄木が函館の小学校で臨時教員をしていたときの同僚で、啄木が3歳年下の彼女に想いを寄せて詠んだ22首の歌が、歌集「一握の砂」に収められているそうです。

歴史のあしあと 札幌の碑

ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑、記念碑が気になり始めてから、沢山の人にその存在を紹介してこうと思い、はじめはブログから始めました。札幌の歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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