「偕楽園跡」。

(あしあと その81)

昨日三男坊を映画館に放り込んだ後、映画が終わるまでの2時間、私は一人で札幌駅界隈を探訪してきました。

札幌駅の周辺で一番気になっていた場所は、北7条西7丁目の偕楽園緑地を中心とした地域です。

ひとまず、北6条西7丁目をJR函館本線の高架沿いに西に向かって歩いて行くと、「大原簿記情報専門学校」の赤茶色の建物が道路の北側に建っているのが目に入ります。そしてその建物の角には、この一角が日本で最初の都市公園であった偕楽園の広大な敷地の中にあったことが記されたレリーフが置かれています。

このレリーフには、

「名跡偕楽園由来

明治2年開拓使が設置され、蝦夷地を北海道と改称する島判官が札幌本庁建設に着手、現在地は北海道開拓の初期(明治4年、1871年)当時の初代長官岩村通俊によって初めての都市公園“偕楽園”として造成された跡地である。

この偕楽園は水戸市の偕楽園に因んで名づけられ、園内は大部分が試作農場の他、①仮博物館(移転して北大の博物館となる)、②鮭・ますの人工孵化場(明治10年)、③製物試験所(同12年)、④花室(温室)、競馬場(同12年)、⑤屯田兵招魂碑、鳥居(同12年)、⑥水木清華亭(同13年)、⑦生徒館、等が建てられ北海道文化産業の発祥地であります。

又、この場所は清水が泉の如く湧き昭和10年代迄は毎年鮭が遡上致しており、、この地より真北150m先に当時の建物“清華亭”が札幌市の指定有形文化財として当時を偲ぶ唯一の建物として現存している。

尚、現在当校は右図の位置、この偕楽園跡地の屯田兵招魂碑、鳥居の場所に建設されたのである。

平成2年3月

百年の清華亭

札幌市教育委員会編より」

と記されています。

さらに、レリーフの右側に記された絵図には明治15年当時の「偕楽園図」が描かれていて、原生林に覆われた偕楽園の古き姿が偲ばれます。

この図面の下を東西に走る鉄道は、現在のJR函館本線です。この鉄道に面して設置された鳥居をくぐった奥に屯田兵招魂碑が建立されていますが、この碑は明治12年にこの地に建てられ、その後昭和8年に札幌護国神社の境内にある彰徳苑に移設されて、現在に至っています(こちら)

また園内の東側にある池は、豊平川の伏流水が湧き出たメムと呼ばれる湧水池です。当時は周辺に無数にあったメムも、昭和に入ってから水源が枯渇してしまい、そのほとんどが現存していません。

池の北側の森林内に建っている「土人家」と記されているのは、当時この周辺に暮らしていたアイヌの人たちの住家と思われます。

歴史のあしあと 札幌の碑

ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑、記念碑が気になり始めてから、沢山の人にその存在を紹介してこうと思い、はじめはブログから始めました。札幌の歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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