「メレヨン島戦没者慰霊碑」。

(あしあと その38)

彰徳苑の13基目の碑は、「メレヨン島戦没者慰霊碑」です。

メレヨン島は、インドネシア共和国の一部であるニューギニア島の北方、太平洋の一帯に広がるカロリン諸島で構成されるミクロネシア連邦にあり、現在は連邦の4州の最も西に位置するヤップ州の中のウォレアイ環礁のことを指します。

黒御影石でできたこの碑は、昭和46年に建立されました。碑銘の揮毫は、当時の北海道知事堂垣内尚弘氏の筆によるものです。

碑の裏側の碑文には、

「第二次世界大戦中 西カロリン群島メレヨン島守備隊は 寧日なき米軍の猛攻撃を受け 高温多湿悪疫瘴癘に悩まされつつ食糧医薬品の欠乏に斃るるもの続出し 陸海軍総員六千八百名中実に五千二百名を失ふに至る このうち本道出身戦歿者約一千四百名の多きに達す 茲に南洋の珊瑚礁に眠る英霊を弔慰するため 遺族並びに僅か二百名の生還者一同相寄り相扶け この碑を建つ

昭和四十六年十月

北海道メレヨン会」

と刻まれており、当時生き地獄と化した南洋の孤島で、続々と死屍が築かれていく悲惨な状況が見てとれます。蛋白源として小魚やネズミ、ヤドカリ、トカゲ、ヤシガニを食べて飢えをしのぎながらも毎日餓死者が続出し、総員の約7割に当たる4,500人近い兵士が餓えや病気で命を失いました。

結果的に日本軍守備隊は餓死によって壊滅状態となり、戦わずして玉砕した悲劇の島と呼ばれています。

碑の後方には、昭和52年7月3日の全国メレヨン会北海道大会を記念して建てられた全戦没者の氏名が刻まれた碑があり、その中央下部の石版右側には

「米軍の反攻熾烈を極め 食糧の危機その極限に達す 昭和二十年一月当時メレヨン島守備隊長北村勝三少将が詠んだこの和歌は 太平洋の防波堤として烈々たる斗魂と責務を示し 全将兵の志気を鼓舞したものである 北村氏は戦後割腹自決をしてその生涯を遂げられる」

と刻まれ、石版の中央部には北村氏が詠んだ和歌

「千早振る 大和島根はゆるぎなし 沖乃白波 寄せて砕けよ」

を記した鋼鉄製の防盾が置かれ、さらにその説明が石版の左側に続きます。

「右の防盾は 昭和五十年十一月第三次遺骨収集派遣団員としてメレヨン島に赴いた富樫正雄氏が 曽ていくさの庭であった南溟の同島で あまた戦友の御遺骨と共に土中に埋もれていたものを持帰り メレヨン島戦歿者遺族会が之を碑前に捧ぐ」

北村勝三陸軍少将は、戦後帰国して復員処理を終えた2年後の昭和22年8月15日、部下の死の責任を取って故郷の長野県で割腹自殺を遂げました。

('15/05/03 追記する)

氏名碑の背面には、次のような「碑録」が刻まれています。

「碑録

昭和十九年二月満洲を出発した関東軍第二十四師団の三阡三百の精鋭は釜山から門司に至り輸送船団を編成し対話パラオサイパンを経て同年四月九日ガム島に至るも同島を目前にした払暁米機動部隊の魚雷を受け指揮船松江丸以外の僚船は悉く炎上した

昭和十九年四月十二日目的地メレヨン島に上陸し既に配備を完了していた海軍部隊と合流したが同月十八日第一回の空襲を受け多数の戰死者を出し加えて兵器彈薬糧秣の殆んどを失ひ爾来終戰迄連日の空襲を受けた

この空襲以後すべての補給は断れ昭和十九年末頃からは極度の食糧の不足により死亡者も急増し陸海合せて六阡八百と言はれた兵力も遂に五阡ニ百余の戰歿者を出し更に制空制海権をも失った同島は完全に太平洋上に孤立するに至り部隊としての編成は事実上その機能を失ひ昭和二十年八月十五日戰争終結となった

翌九月十五日現地において武装解除直に病院船高髙砂丸に乘船帰国の途につき同月二十六日大分県別府市に上陸翌十月七日部隊解散となる

昭和三十九年末メレヨン島からの生還者少数によって北海道メレヨン会が結成され翌々年四月現地への墓参と遺骨の蒐集を計画し民間自費で北海道は平野春栄氏東京は小関信章氏大阪は沖中慶ニ氏が現地に出発翌五月現地での任務を終って帰国した三氏は広島県福山に全国メレヨン会の建設した碑に納骨し続いて七月北海道地区は平野春栄氏の報告をかねて慰霊祭を行う

北海道メレヨン会は昭和四十六年慰霊碑を建設したので我々は之を機会に遺族会を結成しこれまで長期にわたる生還者の厚意に依存してきたことに思いをいたし氏名碑を建て慰霊碑の補足とし部隊の行動と現在までの経過更には壱阡四百十二名の戰歿者を後世に記録するためこの碑を建てる

  昭和四十九年九月二十二日

           メレヨン島北海道遺族会

              会長 藤枝義見

この碑に記録された者は昭和十九年四月十二日から昭和二十年九月二十五日までの間にメレヨン島又は船中において戰歿した者とし所属部隊及び氏名はすべて北海道庁の戰歿者台帖によって確認した 又留守家族が道内にあった者を原則としたが例外として遺族が道外から転入し申し出た者は記録した

碑の台座にある砂と貝殻は昭和四十一年五月代表者が現地から持ち帰ったものである」

さらに、この「碑録」の下に、「氏名碑建設功労者」として18名の氏名が記された金属板がはめ込まれており、

「この碑を建設するにあたり物心両面にわたり特に多大の協力を得ましたことを深く感謝します」

と締められています。

この氏名碑の背後の石垣には、昭和52年7月3日に開催された「全国メレヨン会北海道大会記念」として、北海道メレヨン会の会員氏名が記された石板がはめ込まれています。

('15/07/24 追記する)

先日、メレヨン島戦没者の遺族による慰霊祭が行われた際に、副碑が建てられたという新聞記事を読んだので、早速副碑を見に行ってきました。

副碑は、本碑後方の全戦没者の氏名が刻まれた碑の左側に建てられており、白御影石の台座の上に、黒御影石でできた地図がはめ込まれた石板が置かれています。

地図には、

「メレヨン島(ウォーレアイ環礁)位置図

福山師団南洋五支隊 満州東安第七派遣隊 行動経過図」

と題され、メレヨン島で玉砕する結果となった部隊の行動が詳細に示されています。

副碑の背面には、

「第四十五回メレヨン島北海道出身戦没者追悼慰霊祭記念事業として

メレヨン島(ウォーレアイ環礁)位置図を建設する」

と記され、建設協力者として3名の生還者の氏名と並び、「メレヨン島北海道遺族会」の名が刻まれています。

また本碑の左側面には、「昭和四十六年十月二十四日建之 北海道メレヨン会一同」と刻まれています。

歴史のあしあと 札幌の碑

ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑、記念碑が気になり始めてから、沢山の人にその存在を紹介してこうと思い、はじめはブログから始めました。札幌の歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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