「木下弥八郎君之碑」。

(あしあと その8)

札幌の中心部からやや南に位置する中央区の南10条西2丁目。この住所は地図上では3本の道路に囲まれた小さな三角形の空き地になってます。いつも気がつかずに通り過ぎてしまうようなこの場所に忽然と建つ石碑。

その碑は、碑面に漢文の細かい字がびっしりと刻まれた「木下弥八郎君之碑」です。碑は南の空き地側に正面を向け、南九条通の歩道側には裏面を見せてひっそりと建っています。

木下弥八郎は56歳の時に来道し、札幌の開拓に身命を捧げてその生涯を終えた、但馬(たじま、今の兵庫県)豊岡藩の元家老です。彼の功績を讃えるために、大正10年1月に建立されたこの石碑の碑文は、時の総理大臣原敬 、題字は元総理で後に元老に列せられた西園寺公望の手によるものなんだそうです。

北海道の開拓に尽力した木下氏の功績がいかに高く評価されたのか想像に難くありませんね。

もとはこの地は木下家があった場所なんだそうで、碑の裏面に刻まれた木下成太郎は弥八郎の実子であり、父親とともに来道して北海道の開拓に尽力しました。碑が建つこの場所は草木が伸び放題になり、立ち止まって眺める人もあんまりいないようですが、私たちは今ある札幌を築いた先人の苦労を忘れてはいけませんね。

('14/12/03 追記する)

碑面に刻まれている文字は旧字体のため判然としない部分もありますが、おおむね次のとおりです。

「木下翁碑銘 正二位大勲位公爵西園寺公望題額 

翁諱守共稱彌八郎木下氏出於美作守半助子頼繼殉大阪役遺孤勘兵衞八歳亡在京師黒谷後以徳川秀忠命客 田邊城主京極氏京極氏移封豊岡從之世為重臣勘兵衞有女理玖歸大石氏生主税主税赤穂義士領袖也考諱元 智妣舟木氏翁以文政九年十一月生藩邸幼好學就櫻井藤陰游弱冠來江戸師事遠藤勝助杉山東一郎肆力文武 業成帰藩適国家変故海内騒然藩侯有命更遊水戸執質會澤正志藤田東湖門聽其説深慨 王室式微歴訪諸藩 與勤 王之士交将以大有為至棚倉會得父疾報星夜電馳還江戸藩邸店舗十四年襲父任老職決定藩論奉勤 王大義主創稽古堂聘藤澤東畡於大阪池田草庵於八鹿大講實學招金子武四郎於水戸盛奨武術闔藩士氣翕然 而起未幾澤宣嘉平野國臣南八郎美玉三平北垣國道等以三條實美旨糾合義徒於生野與翁有黙契桂小五郎亦 來投文久三年八郎等首擧義於銀山幕府令本藩討伐翁按兵故不進迨義徒敗幕府追窮愈嚴藩侯恐累或迨遷翁 爲文武局總裁翁廼專意育英抜擢人材訓督有方他日濟濟多士出於本藩黼黻 中與者蓋與有力焉建櫜之日鎮 撫使西園寺公望巡行山陰翁從之觀 王化既洽感激自誓曰幸拜 天日報効有道吾輩豈宣優游暇逸哉擧家遷 北海道從事拓殖晴畊雨讀開荒底績明治三十八年十月三十日歾札幌之居壽八十一葬于外郊臥龍山麓翁天資

剛果慨然挙國其在江戸東湖屢過以謂爲尊攘先鋒書旗章魁字與之三輪田元綱嘗梟足利氏像幽囚本藩翁能庇 護之令得不匱銀山之敗指畫百万奔竄義徒國臣小五郎等皆受蔭櫻田之變亡命來投者亦傾産奉給配荒木氏有 四男四女冑成太郎嗣爲衆議院議員侠氣激人頗有父風與予友善次三四彦爲辯護士亦有令名女皆歸他 皇上登極之八年特 旨贈正五位追録前烈 天恩優渥可謂死而有餘榮矣銘曰

革乎維時 彪変迪吉 帝監曷明 勑旌亮節 於戲伊人 億載匪滅 斗辰之野 大邦之北

大正十年一月 内閣總理大臣正三位勲一等原敬撰

土屋久泰書 井龜泉刻」

また、碑の背面には次のように刻まれています。

「内閣書記官長高橋光威貴族院議員松本剛吉詩人結城琢國學院大學教授新田興諸君賛建碑之擧斡旋大勤謹誌以表謝意 勲四等政友会総務 (不明)揮毫(不明)茲(不明)建之 木下成太郎識」

('15/06/22 追記する)

くるさんからコメントをいただきました。碑の背面に刻まれた文章の不明であった箇所は、

「園公病餘揮毫遅 茲歳戊辰秋建之」(園公(西園寺公)が病み上がりで揮毫が遅れ、戊辰の年(昭和3年)秋になってこれを建てた)

と読むのではないかということでした。ありがとうございます。

歴史のあしあと 札幌の碑

ふとしたことで、札幌とその近郊に残された石碑、記念碑が気になり始めてから、沢山の人にその存在を紹介してこうと思い、はじめはブログから始めました。札幌の歴史が刻まれてきた碑の数々を、後世に引き継いでいけたらと思います。

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