番外編

あしあと 番外編6 「失われた石碑」。

(2018年10月07日)

石碑巡りを始めるようになってから、今も残されている石碑だけではなくて、失われた石碑にも興味を持つようになりました。その中の一つが、「故前鼻幸次郎君遭難之碑」です。この碑は、定山渓から中山峠に至る国道230号の旧道沿いにあるであろうということは、数々の資料からわかっていましたが、その詳しい場所までは判明しませんでした。この旧道というのは国道230号の前身である「東本願寺道路」のことであり、今もヒグマの遭遇にさえ注意を払えば、中山峠から徒歩でたどっていくことが可能です(現在は、途中に橋が崩落した箇所があるようです。)。

この碑の存在は南区役所のHPにも記されており、「南区開拓夜話」の「開拓は熊におびえながらも」というタイトルの記事の中に、「●定山渓辺りの話」として

「中山峠に通ずる旧道で、道路工事監督の前鼻幸次郎(まえはな・こうじろう)さんが熊に喰い殺され、供養碑が道端に建っていて、観光バスのバスガイドが遭難悲話を語った時代があった。」

と記されています。

その他にも、みなみ区ふるさと小百科編集委員会編の「みなみ区ふるさと小百科」にこの石碑のことが記されており、さらに、藻岩下100周年出版記念会による「郷土史 藻岩下 さっぽろ」の11ページ目の口絵写真に、「明治のころは中山峠でも郵便集配人の熊による犠牲者も出た」と付記されたこの石碑と思われる白黒写真(碑に刻まれた氏名が「前鼻奉次郎」となっている。)が掲載されているので、その碑が存在することは明らかでした。また、堀淳一著「続 忘れられた道 北の旧道・廃道を行く」に、この石碑の場所に触れた一文があり、それによると、旧国道を下って現在の定山渓トンネルの上を通過してからしばらく定山渓方向に向かった辺りに碑があったことが想像されました。

これらの書籍のほか、ネットで北海道のヒグマによる被害を調べてみたところ、昭和13年秋に中山峠で道路作業者1名が犠牲になる襲撃事件が判明し、まさしくこれが前鼻幸次郎被害によるものであるのではないかと思いました。そこで、中央図書館で過去の新聞記事を探してみたところ、昭和13年10月23日付けの北海タイムスの朝刊に事件の発生を知らせる第一報を発見することができました。マイクロフィルムでの閲覧であったため、コピーが不鮮明になってしまいましたが、そこには次のように記されていました。

「定山渓附近に人喰ひ巨熊 騎馬の人夫を引攫ふ

二十一日午後一時半頃札幌郡豊平町定山渓から虻田郡喜茂別村へ通ずる地方費道路を視察した道廳中村土木部長、杉森道路課長、前田胆振支廳長、叶札幌土木事務所長等一行七名を案内した定山渓土木請負業前花長次郎方人夫前花幸次郎さん(ニ一)吉倉良太郎さん(三九)の二名は歸途馬に乗って定山渓から約三里奥の薄別大曲へ差し懸つたところ巨熊が現はれて突然吉倉に襲いかゝつたので前花が逃走せんとするや熊は轉じて前花を襲つた際に吉倉は逃走前花の悲鳴を二、三回聞いたゞけで午後六時頃漸く逃げ歸り急を知らせたので九時三十分頃前花飯場の一行が出動捜査したが前花は発見されないので巨熊のため何處かに持ち運ばれたものらしく二十二日は早朝から定山渓青年團、消防組が猟銃を持つて捜査中である尚中村土木部長一行は無事喜茂別へ到着した」

続けて第二報は、10月24日付けの朝刊に小さく掲載されていました。それによると、

「熊に半分喰はれて

定山渓から三里半薄別大曲附近で巨熊に襲はれ行方不明となった前花幸次郎君(ニ一)は二十二日午前十一時半頃現場より二十間を隔てたる草叢中に右全半身を殆ど喰ひ盡され無残な死體となつて埋歿してゐたのを発見された」

第三報は、前花氏を襲った熊を仕留めた記事で、10月27日付けの夕刊に見つけました。そこには、

「定山渓の人喰熊 きのふ見事射止む

去る二十一日札幌郡豊平町定山渓奥約三里薄別大曲で道廳中村土木部長一行を案内しての歸途の定山渓土木請負業前花長次郎方人夫前花幸次郎(ニ一)吉倉良太郎(三九)の两名を襲つて前花幸次郎さんを喰殺した熊を二十二日から捜索中の定山渓東一番通り大木輝雄さん(四七)が二十五日午前十時頃一旦熊狩りを打切って下山定山渓炭酸水山方五丁程の個所へ差し懸つたところ約五間の後から熊が尾行して来たのを感知まさに襲ひかゝらんと立ち上がった瞬間大木さんは見事一発で射殺したこの熊は六歳の雌で身長六尺體重五十貫の巨熊で前記幸次郎さんを喰ひ殺した熊と判明幸次郎さんが襲はれた現場から約半里離れたところであつた尚大木さんは熊狩の名人で是まで三十頭近くを射殺してゐる」

と記されています。


身長六尺とは、1尺が約30センチメートルとして約1.8メートルとなり、体重五十貫とは、1貫が3.75キログラムとして187.5キログラムほどになります。

この記事から、被害者の職業が土木請負業の人夫であることが明らかになったので、図書館で国道230号の建設や歴史に関する著作を検索してみたところ、北海道道路史調査会による「本願寺街道・定山渓国道物語」という本を探し出すことができました。その中で上記のヒグマ襲撃事件のことについて触れられていますが、被害者を慰霊したその石碑については「現在は存在しない」と明記されています。

私は機会があれば旧道を訪れて「故前鼻幸次郎君遭難之碑」を探してみようと考えていましたが、今のところ平成18年発行のこの本に記されている情報が一番新しいもののようなので、この碑は今ではもう失われてしまったと考えたほうがいいでしょう。


あしあと 番外編5 「五天山」。

(2018年07月21日)

以前から行きたいと思っていながら、一人で行くことにためらいがあってなかなか実現できていなかった場所に行ってきました。そこは西区福井にある「五天山」です。さっぽろ石碑探索部のメンバーに声をかけて集まった4人とともに、五天山の中腹にある旧五天山神社とその境内に集められた馬頭観音などの石像群。それと山頂にある旧奥の院の確認に行きました。

五天山は登山道もあるので、初心者向けの登山が楽しめます。登山行をアップしたHPやブログが多数あるので、ここでは詳しく触れませんが、実際に自分の目で見ないとわからないものがたくさんあって、とても満足のいくツアーでした。

ちなみに五天山については、「さっぽろ文庫48 札幌の山々」に、

「昭和初期、近くに開拓に入った農民の一人に大国主命のお告げがあったので彼は皆と語らい山の頂上に祠を建て、それはシャカの国インドの山を意味する五天山と名づけられた。」

と記され、また「さっぽろ文庫1 札幌地名考」にはもう少し詳しく、

「名称の由来は、昭和十年(一九三五)井上弥一郎の夢枕に大国主大神のお告げがあったので、村人の安井広、野村村栄、佐々木千代松(山の所有者)らと共同して山頂に神祠を設けたのが起こりで、そのとき仏典から引用して五天山と名付けた。」。

とあります。

「井上弥一郎」、「安井広」、「野村村栄」の3氏については、山頂にある旧奥の院の正面に、「監理実行教補訓導 井上弥一郎」、「世話人 野村村栄 安井廣」と、その名前が刻まれていました。また、井上氏は、旧五天山神社の境内の一角に、「開祖 井上弥一郎翁」の石像が祀られています。

昭和28年(1953)ころから山の東斜面で採石がはじまり、山体の約3分の1が削り取られてしまいましたが、その後総合公園として整備され、現在は五天山公園として市民の憩いの場所となっています。山頂からは、ロープが張られて立ち入りが制限されていますが、公園をはるか下に見下ろすことができます。


あしあと 番外編4 「西8丁目通」。

(2015年02月09日)

札幌市の都心部の道路は、碁盤の目のように直線に走っていて、条丁目でわかりやすく表されています。地図を見ても確かにそのほとんどが直線であり、角度がついていたとしてもそう不自然な流れの道ではありません。

ところが、以前からとても気になっていたことがあります。それは、北2条から北4条まで、西8丁目から10丁目までの広大な敷地を都心部に有する北大植物園の東側に、南北に市道西8丁目通が走っていますが、この市道が北3条の部分でくの字に折れ曲がっているんです。

写真はちょっとわかりにくいかもしれませんが、西8丁目通を北大植物園の北東角から南方向に向かって撮影したものです。

直線に伸びた道路の奥の向かって左側(東側)にあるマンションが、西方向に飛び出している様子がわかります。この部分で市道がくの字に折れ曲がってから直線に戻り、南方向に伸びているんです。

地図で見ると、このようになっています。

私は、だいぶ前からこの不自然な道路の形状を不思議に感じていました。ほとんど直線道路である都心部の道路が、なぜこの部分だけくの字に曲がっているのだろうか。

ということで、昔の地図を見てみると。

これは、大正7年発行の「札幌市街之圖」に記された植物園です。園内には豊平川の伏流水が湧出したメムと呼ばれる湧水地がありました。そこから川となって園内を流れていく様子が、緑色で表されています。メムは植物園の南東角に見られますが、そこから北方向に向かった流れは一度園の東側に飛び出して池を作り、再び園内に入って西方向に向かいます。

そこで、園の外側に飛び出した流れをよく見てみると、西8丁目通の2か所に橋が架かっています。つまり、ここが現在の市道のくの字になっている部分であることがわかります。写真にあるマンションは、かつて池があった場所に建てられているんですね。

さらに新旧の地図を見比べてみると、植物園内にあったメムの名残が、今も池になって残っていることがわかります。


あしあと 番外編3 「藻岩温泉」。

(2015年02月08日)

以前に紹介した、旭ケ丘の丘陵に建つ「(新)清水」碑(こちら)。この碑が建つ地域には、かつて湧出した温泉を利用した保養地がありました。それが藻岩温泉、別名山鼻鉱泉と呼ばれ、風雅な温泉旅館の風詠館がその賑わいの中心でした。

昭和6年発行の「新らしい札幌市の地圖」には、「山鼻鑛泉」としてその名前が記されています。

藻岩温泉の歴史は、明治25年に遡ります。当時この地に居住していた松浦丑次郎氏が、自宅の敷地内に温泉が湧出しているのを発見し、明治31年(一説によると明治38年)に旅館を建てて営業を始めました。この温泉が松浦温泉とも称されるのは、創業者の名前からとったものであると思われます。

ちなみに、藻岩温泉があったと思われる場所は、現在の地図と比較してみると次のようになります。

上は現在の周辺の地図で、下は先に示した地図です。同一と思われる道路(必ずしも一致するとは言えませんが)を赤線で示しましたが、当時の温泉は現在のエルムガーデン(旧エルム山荘)の上側にあったのではないかと推測されます。

温泉マークの辺りの道路の北側に広がる私有地内には、今でも立派な庭石などが当時のまま残されており、風雅な面影が偲ばれます。

当時の藻岩温泉の敷地は約4,000坪あり、これは札幌ドームの屋内アリーナよりやや狭いくらいの面積になります。現在の中国在札幌総領事館やエルムガーデン(旧エルム山荘)は、かつての藻岩温泉の敷地内であった場所に建てられています。松浦氏の所有する土地はさらに広く、伏見稲荷神社の崖上から崖下に至る広大なものであったそうです。

その一角に建てられた風詠館は、木造2階建てのたいへん立派な建物で、大正末期を頂点に湯治客でにぎわいましたが、昭和に入ってから不況のあおりを受けて客足が減り、昭和9年ごろに閉館しました。

さらに、上の2枚の地図を比べてみると、北東に位置する幌西小学校と南の伏見稲荷神社、それと神社のすぐ近くにある養老院(現在の慈啓会病院)は位置が変わらないことがわかります。

旧地図の山鼻鉱泉の北西に記された「札幌温泉」は、昭和4年から運行されていた札幌温泉電気軌道の終点となる停留所を表し、その路線が北東から北方向に延びていることがわかります。

この軌道は、地図の西方向に記された界川(さかいがわ)の文字の辺りにあった札幌温泉への旅客輸送のために敷設されましたが、不況のあおりを受けて温泉客が激減した影響により、わずか4年ほどで営業を終えました。

この辺りには、かつていくつかの温泉旅館が存在していましたが、今ではその存在を明らかにするものはほとんど残されていません。


あしあと 番外編2 「招魂社」。

(2014年01月16日)

開拓紀念碑に続いて、同じ地図にある招魂社のことについて。

これは、明治12年に西南戦争に従軍して戦死した屯田兵の霊を慰めるために建てられてた招魂碑を指すものです。地図内に招魂社と記されているのは、碑の記号から見て招魂碑のことであり、当時は碑とともに社が建てられていて、これらを招魂社と称していたものと思われます。

この碑は明治40年に日清戦争の戦死者を合祀して、明治44年に中島公園(当時は中島遊園地)に移設され、大正11年には札幌招魂社と改称されました。

その後昭和8年に現在の護国神社の社殿が造営されて、札幌招魂社から札幌護国神社に改称され、中島公園内に建てられた忠魂碑とともに護国神社の境内に広がる彰徳苑に移されて、現在に至っています。

つまり、北6西7の偕楽園内にあった屯田兵招魂碑は、札幌で最も古い碑とされるだけでなく、札幌護国神社の前身に当たることになるのです。(札幌護国神社公式サイト)

※地図は、国際日本文化研究センターの公開デジタルデータベースから引用した「札幌市街區劃明細圖」です。



あしあと 番外編1 「開拓紀念碑」。

(2014年01月13日)

この「先人のあしあと」をブログに載せるようになって、ちょっとした疑問が湧いてきました。それは、最初のころにブログで紹介した、大通公園の西6丁目にある「開拓紀念碑」(こちら)のことについてです。

この碑は、もとは北区の鉄道沿いに開かれた日本最初の都市公園である偕楽園に建てられました。その後明治38年に現在の地に移されていますが、それではもとに建てられていた場所はどこだったのか。

昨年買った「地図の中の札幌」という本を読んでいて、その謎が解明されました。その本の中に、明治34年の札幌の市街図が登載されており、その地図に開拓紀念碑の場所が記されていたんです。

その場所は現在の北5条西8丁目で、札幌商工会議所名誉会頭の伊藤義郎氏の邸宅の敷地内に当ります。

図と写真の緑枠内は、現在の北大植物園。赤枠内は北海道庁の敷地になります。また、開拓紀念碑の東西と鉄道を挟んだ北側には樹草が、同じく鉄道を挟んだ北西側には水田の記号が広がっていて、碑のすぐ北東や植物園内とその周辺に小さな池や川が流れているのがわかります。この池は、「メム」と呼ばれる豊平川の伏流水が湧き出た湧水池です。現在のメムは水源が枯渇してしまい、見る影はありません。

※地図は、国際日本文化研究センターの公開デジタルデータベースから引用した「札幌市街區劃明細圖」です。